呉汝俊(ウー・ルーチン)物語
京胡奏者の父と、京劇俳優の母との間に生まれたにもかかわらず、子供の頃は当時習っていた少林寺や卓球の選手になることを夢見ていた呉少年。9歳から父親に半ば強制的に京胡を習わされたが、当時は練習が嫌で嫌で仕方が無かったという。しかし次第にこの楽器の魅力が分ってきて、上達したことを褒められると練習に打ち込むようになった。11歳の時にはオーディションに合格し、国家公務員として国立楽団に入った。京胡は元々京劇の歌い手の伴奏楽器であるが、実際は伴奏というよりもデュエットに近いものがあり、その奏者は歌手同様にその歌を歌いこなし、歌い手の心を理解できなければ演奏できないといわれている。当然その練習は過酷を極め、一万倍の競争率を突破して入学した中国戯曲学院では6年間に渡り、連日12時間以上の練習を続けた。当時彼は消灯時間に床に入っても1〜2時間で起き出し、朝まで練習するのが常だったという。こういった努力の甲斐も有り、彼は主席で同学院を卒業したが、いざ世の中に出てみると、自分があれほど神聖且つ崇高と思っていた“京劇”は世間では流行遅れと見られていて、ロックなどの新しい音楽の流れの中で廃れ始めていた。そんな世間の流れを横目で見つつ、中国戯曲学院を卒業と同時に中国京劇院に進んだ彼は、なおいっそう音楽に打ち込んでいった。そんなある日、彼が17歳の時に同級生の女の子の歌を聴いていて、「こんな風に歌ったほうが良いのでは」とアドバイスのつもりで何気なく高い声を出してみると、突然美しいファルセットが自分の口から流れ出た。周りに居た友人はもとより、何より彼自身がそのことに吃驚して、この時、男旦(女形)呉汝俊が目覚めた。
文化大革命当時、男旦(女形)は退廃的という理由で禁止となっていた。その為、後継者育成の道が一時閉ざされていた事から、呉汝俊が中国唯一の男旦ということだった。次第に彼は男旦を通じ、京劇を世に広めることを天命と考えるようになった。それ以降数々の京劇の出演のみならず監督や、演出まで手掛け、次第にその名を広めていく。また、彼の美しい歌声は「金の声」と評され、各媒体で激賞されることとなった。同時に京胡演奏家としても高い評価を得ていた彼だが、そもそも伴奏楽器であった京胡を独奏楽器として演奏できないかと考え、血のにじむような努力をした結果、‘88年に中国音楽史上初の京胡独奏音楽会を北京で開催し、大喝采を受け、以降独奏者として京胡を演奏していくことを決意した。しかし、彼が伴奏をしていた京劇歌手にしてみれば、最高の相方を失うことになることから、様々な引き止めがあり、その道は決して平易なものではなかったという。
京劇俳優、天才京胡演奏家と呼ばれ中国国内での名声をほしいままにしてきた彼が、あえてその地位を捨て日本に渡ってきたのは、ひとえにより多くの人に京劇を含む中国文化を知ってもらい、京胡を聴いて貰いたいと考えたからに他ならない。
彼の眼差しの先には、もう世界が見えてきている。

新京劇「楊貴妃と阿倍仲麻呂」より

新京劇「四美人」より

新京劇「四美人」より

新京劇「四美人」より

新京劇「四美人」より

新京劇「武則天」より

中国劇「白鳥の湖」より

新京劇「七夕物語」より